Masuk月曜の朝。
部長席でメールを整理していると──秘書アプリの通知が震えた。
《清晴堂 東京本社より:朝倉部長を至急お招きしたいとのこと》
(……来たわね)
私が返信するより早く、広報の若い子が駆け寄ってきた。
「部長、大変です……!
清晴堂の神園いずみ様が至急、本社へと……」(呼びつけるとは、ずいぶん強気ね)
その瞬間──胸の奥を、六年前のあの光景がねっとりと撫でた。
純白の令嬢が晴紀の腕を取り、「勘違いした子」と笑った夜。絶望と屈辱の記憶が重なって、胸の内側がちり、と焼けた。
あの痛みだけは、いまだに身体の奥が先に反応する。(……忘れろと言われても無理よね)
でも今は──その焼け跡さえ、私を前に進ませる熱になってる。
(見ていなさい。もう私はあの子じゃない)
私は静かに立ち上がった。
「分かったわ。向かう準備をする」***
タクシーが止まったのは、銀座の裏手にそびえる──清晴堂・東京本社。
石造りの外壁に、黒染めの木枠。
重厚な暖簾が風に揺れ、 歴史そのものが建物の空気を支配している。けれど、私は知っている。
(……本当はずっと赤字続き)
(格式の看板は立派でも、実態は──神園家の延命措置で辛うじて呼吸しているだけ)銀座本店は観光客が絶えない。
でも、高齢の職人の人件費、設備維持費、原材料高騰── 全部が時代と逆行している。(……だからこそ、いま必要とされるのは私。でも彼女は、それだけは認めない)
(そこまで含めて──最初から読めていた)古い外観とは裏腹に、エントランスだけは近代的で、全面ガラス張りだ。
私はそのガラスの自動扉を抜け、受付で名前を告げた。
「リュエールの朝倉様ですね。お待ちしておりました。 会議室へどうぞ」(呼びつけておいて丁寧に迎えるって……余裕を見せたいのかしら)
***
会議室の扉に手をかけた瞬間、中から妙に余裕を含んだ、上から落ちてくるような声が響いた。
「庶民向けの宣伝など不要ですのよ? 清晴堂は選ばれた人のためのブランドですもの」
語尾がやたら甘い。
自信に満ち、勝ち誇った見せつけの声色。(……ああ、完全に公開処刑モードね。呼びつけておいてこれ)
私は静かに息を整え、扉を押し開けた。
八つの視線が一斉に私へ向く。
いずみは、まるで勝利を確信した女そのものだった。組んだ脚の角度すら見せ場として計算したような笑み。
上座にふんぞり返り──来たわね。あなたの立場を思い出させてあげるとでも言いたげな視線。(六年ぶりに見る顔でも……相変わらずね)
(でも──覚悟なさい) (私は、あの日から別の生き方をしてきた)上座には、創業家の娘で相談役の神園いずみ。
その隣で、代表取締役・清水晴紀が沈痛な面持ちで沈黙している。 少し離れた席では、経営企画部長であり晴紀の弟──清水悠斗がタブレットを閉じ、こちらに意識を向けた。 広報の若いスタッフは、空気に呑まれたまま背筋を固くしている。(ふふ……公開処刑のつもり? 悪くないわ)
いずみの目がわずかに見開かれた。
七年前とは違う私を、ようやく認識したのだろう。私は丁寧に微笑む。
「お招きいただきありがとうございます。
リュエール マーケティング部部長の朝倉です」広報の若いスタッフが、一瞬だけ見惚れたように息を呑んだ。
(……こういう反応にも、もう慣れた)
「まずは──弊社の立案したブランド刷新戦略の意図を充分にご理解いただけていないようで……申し訳ありません」
空気が、ぴん、と張りつめる。
私は資料を一枚だけ持ち上げ、淡々と続けた。
「一点だけ、誤解がないようにお伺いします。
清晴堂さまは現在、三期連続の営業赤字。
累計で四億三千八百万円のマイナス。さらに昨期は固定費を削ったにも関わらず、赤字幅は前年の112%に拡大──」
視線をいずみにだけ向け、ほんのわずか笑む。
「この認識で、相違ありませんよね?」
「それが何かしら? 神園家の支援がありますから、問題ありませんわ」
(出たわね、ビジネスを理解していない側の言い分)
「なるほど。だからこそ、経営方針を改め、ブランドを立て直し、自力での再生を図っている──そう理解しておりました。
ですが……もし誰かの支援ありきで経営されるのでしたら」
わざと、少しだけ首を傾ける。
「弊社ができることは、何もございません。契約は、この場で白紙に戻していただいて構いませんよ?」
ぴたり、と空気が凍った。
晴紀の喉が上下し、悠斗が驚いたように目を上げる。(……ここが勝負。ここで手を引かれると、全計画が崩れる)
(でも大丈夫。Dの読みは外れない)「待ってください、朝倉部長」
悠斗がタブレットを閉じ、真っ直ぐに私を見る。(来た)
晴紀の弟──清水 悠斗。
清晴堂の経営企画部長。 海外MBA帰りで、家族一の切れ者。 若くても、その目だけは数字を読むプロだ。「神園家の支援は保険であって前提ではありません。
清晴堂は数字で立つ会社であるべきだ。 朝倉部長の分析は正しい。続けましょう」一言で、場の力学がひっくり返る。
いずみが憎々し気に悠斗をにらみつけ、晴紀が安堵とも戸惑いともつかない色で視線を落とす。
(Dの分析では──いずみとは経営方針で対立している)
(でも……思った以上に、溝は深い) (……この隙なら、切り込める)「では──改めてご説明します」
私は資料をテーブルに置いた。
「清晴堂さまの最大の強みは、職人の技術と伝統素材。
これは他社が真似できない、確固たる価値です」いずみを除く全員が大きく頷いた。
そのとき、晴紀の表情がほんのわずかに変わった。 誇りが、かすかに滲んだ――そんなふうに見えた。「茶席や旅館などの大口は残っていますが、その量は年々確実に細っています。
加えて、主要顧客の七割を占める50代以上は、この先間違いなく人口が縮小する。 どれだけ価値があっても──市場の方が先に消えていきます。」いずみの眉が跳ねた。
「一方、一般層の中でも、クラフト品質をきちんと評価する層が確実に伸びています。
値段ではなく、価値で選ぶ人たち。 ──今、狙うべきはその層です。御社の強みが一番伝わるのはそこです。」若いスタッフが、思わず前のめりになる。
「だからこそ、わが社の提案はそのセグメントに確実に刺す。
強み × 未開拓市場── これが、現状で最も投資対効果の高い打ち手です。 少人数のサーベイでも、すでに明確な反応が出ています。」「待って。……また勘違いをされているのではなくって?」
いずみはわざとらしく微笑み、自分が正しいと信じて疑わない声で続けた。
「清晴堂のお菓子は、格式の分かる方々が召し上がるものですのよ。庶民向け、なんて……そんなことをしたらブランドが汚れますわ。わたくしたちは特別な人たちに選ばれてきたのですもの」
(……来たわね)
だが、落ち着いた低音がその言葉を切り捨てた。
「……義姉さん。感情は後で」
晴紀の弟──清水悠斗。
数字を読むプロの声。「朝倉部長の分析は妥当です。
強み × 成長市場は、経営の基本ですよ」いずみが何か言い返そうとしたそのとき。
「……二人とも、少し待ってくれ」
晴紀が静かに割って入った。
「いずみの言う『らしさ』も、朝倉さんの未来案も無視できない。
なら──折衷案でどうだ」そう言ったあと、晴紀は視線を落とし、少し逡巡した。
(……相変わらず優柔不断ね。誰も傷つけない結論なんてないのに)
その隙を、いずみが逃さない。
「でしたら リュエール以外の会社にも提案を出していただけばよくてよ? 複数社から案を出してもらって、清晴堂にふさわしい方を選べばいいだけの話ですわ」
あからさまな潰し。
部屋の空気が一瞬ざらつく。そこで──悠斗が静かに言葉を挟んだ。
「……公平にするなら、案は二つでいい。
リュエールと、姉さんが信頼するもう一社」淡々としているのに、逃げ道を封じる声。
「つまり──企画勝負にする、ということです」
いずみが固まり、晴紀が驚いたように瞬いた。
「朝倉さんの案と、もう一社の案。
らしさと未来も満たすのは、どちらか」(いい落としどころ。これなら勝てる)
私は静かに微笑む。
「承知しました。本気の提案をお持ちしますので、楽しみにしていてください」
***
会話の温度だけが、まだ指先に残っていた。
帰り際、資料をまとめて立ち上がろうとしたとき──
紙束の端に伸ばした私の指が、別の指先とふれた。晴紀だった。
さっきまでの張りつめた空気を隠すように、仕事の声で言う。「……朝倉部長。企画、楽しみにしています」
触れた一瞬だけ、胸の奥がひゅっと鳴る。
──冬のデートが、不意に蘇った。
薄着で震えていた私の手を、彼は黙ってポケットに包んでくれた。 温かくて、少し湿って、ごつごつしていて……あのときは、それが世界でいちばん優しい手だった。(……思い出すなんて、最悪)
胸が軋むのを押し殺し、私は冷たく微笑む。
「お気遣いなく。結果は数字で示しますので」
そっと指を離す。
晴紀の表情が、かすかに痛んだ──その陰りを、私は見なかったことにした。——それから、数週間後。 会議室の空気は、わずかに張りつめていた。「夏の導線がうまく伸びていない。……このままでは頓挫する気がします」 悠斗のひと言に、会議室の温度がわずかに下がる。 晴紀が顔を上げ、鬼塚はゆっくりうなずいた。(やっと……核心に触れたか) 季節導線の第一弾は成功した。 客足は三割増、SNSの温度も高かった。 ──だが、それは春の話だ。 一週間前に始めた夏の導線は、思うように動かない。 来客数は横ばい、SNSの拡散も鈍い。 数字の立ち上がりが、明らかに弱かった。「期待ほどの上がり方ではない」 悠斗は資料を閉じた。「導線の核が……まだ動いていない感じがします」 晴紀も小さく息を吸う。「俺も……そう思ってた」 鬼塚が口を開く。「三人とも感じているはずだ。誰の設計に乗っているかを」 沈黙。 目を逸らす者は誰もいない。 もう全員、答えを知っていたからだ。 鬼塚はゆっくり言葉を置いた。「──朝倉朱音だ」 晴紀の喉が、かすかに震えた。 悠斗も息を呑み、手元の資料を握り直す。 鬼塚は続ける。「季節導線の骨格も、物語としての挑戦も。 すべて最初の企画会議で、彼女が提示した視点だ」 悠斗が視線を落とす。「でも……言えませんでした。これ以上、神園家との摩擦が広がれば……」 鬼塚は静かに首を振った。「皆、分かっていた。ただ、触れないという選択をしていただけだ」 会議室の空気が、ひとつ重い音を立てて沈む。 鬼塚はロードマップを見つめながら、淡々と告げた。「夏・夏・秋・冬。あの四季の軸は、本人しか深められない。 どれだけ優秀な担当者がいても、翻訳者がいなければブランドは折れる」 晴紀がゆっくり顔を上げた。「つまり……」 鬼塚は短く言う。「──呼ぶべき人間は、ひとりだ」 悠斗も小さく頷いた。「……朝倉朱音」「だから外部から答えとして出せるのはここまでだ。最終判断は——経営トップの仕事だ」 二人の視線が、晴紀へ向いた。 鬼塚と悠斗の言葉が、晴紀の胸にじわじわ残響していた。 彼らは、真実だけを言った。 逃げ場のない、正しい言葉だった。 だがその先にあるもうひとつの現実を、晴紀もまた知っていた。(朱音を呼べば……炎上リスクが跳ね上がる)(なにより、神園家はきっと手を引く。 支援がな
朝なのに、もう一度眠りに落ちてしまって、 体だけが先に目を覚ましたみたいだった。 布団の重さと、すぐそばの体温だけが、はっきりしている。 意識はまだ水の底に沈んだまま、呼吸だけを整えていると、 背後から、そっと腕が回された。「……朱音、起きてる?」 耳元に落ちる声は低くて、 朝一番の空気を含んだ、やわらかい甘さがあった。「ん……まだ……」 自分でも驚くほど、素直な返事だった。「いいのよ。あなたの無防備な寝顔は可愛いわ」 首筋に、息がかかる。 その熱に反応して、無意識に肩がすくんだ。 逃げるより先に、 この距離が当たり前になっていることに気づいてしまう。「ねぇ、朱音」「……なに?」「閑職、そろそろ飽きたんじゃない?」「え……?」 寝起きの頭が、一瞬で覚める。 Dはゆっくり身体を起こし、かき上げた髪の隙間から光が落ちた。 横顔だけじゃない。 頬のラインも、まつ毛も、喉元の影までもが、朝の光に溶けるように整っている。 美しいじゃ足りない。 近づくほど輪郭が崩れず、むしろ完成してしまうタイプの美しさだった。 それを見ているだけで、 身体の内側が、静かに熱を持つ。「今、少しずつ働きかけてるわ。あなたの部署」「働きかけ……?」「ええ。あなたが前のように仕事に復帰できるように、内部を動かしてるの」 言葉は淡々としているのに、胸の奥が一気に熱くなる。「……ありがとう」 自然と指がDの腕に触れていた。 感謝と、救われたような気持ちが同時にこみ上げる。(やっと、戻れる……?) そう思った瞬間、胸の奥がほっと緩んだ。 けれどDは、そこで一度視線を伏せ—— すぐに、別の温度を帯びた声で言った。「そういえば、清晴堂の夏の導線。あまりうまくいってないみたいね」「……え?」 脳が一拍置いて動く。(なんで……Dがそんなことを?)「鬼塚から聞いたわ」 胸の奥が、変なふうにざわついた。(もう……忘れたつもりだったのに)(関係ないはずなのに) 気になってしまう自分が、いちばん腹立たしい。「あなたに関係ない話よね?」 Dはわざと軽い調子で言った。 でも、その目だけは私の微かな揺れを逃さずに見つめていた。(試されている) 心の奥に沈んでいた火種が、わずかに息を吹き返すのを自覚してしまう。(気になる……
照明を落とした部屋は、外の世界から切り離されたみたいに静かだった。 カーテンの向こうの街の気配は遠くて、ここには私とDの呼吸しかない。 Dは私をベッドに導いたけれど、すぐには横にならなかった。 シーツを整え、枕の位置を直し、それから私を見る。「……無理はしないで」 その言葉が、胸の奥にやさしく沈む。「無理してないわ」 強がりじゃない。 本当に、そうだった。 Dは小さく笑って、私の隣に腰を下ろす。 触れたのは、手首だけ。 脈を確かめるみたいに、指先がそっと添えられる。「そうね。ちゃんと、生きてる顔してる」「どういう意味?」「壊れてる人は、もっと静かよ」 そのまま、Dは私の手を引いた。 キスは、すぐじゃない。 額に。 こめかみに。 頬に。 じらすみたいに、でも乱さない。 そして、ようやく唇に触れた。 深くない、確かめるだけのキス。 私は目を閉じて、それを受け取る。 拒まない。 でも、急がない。 Dの手が背中に回り、服の上からなぞる。 押さえつけるでも、引き寄せるでもない。 ——ここにいていい。 そう言われているみたいな触れ方。「……今日のあなた、綺麗ね」 一瞬、息が止まる。「……あなたのおかげでしょ」 自分でも驚くほど、素直な声だった。 Dは一瞬だけ言葉を失って、それから、いつもより少しだけ近づいた。「そう言われるの、弱いのよ」 唇が重なる。 今度は、さっきより深い。 舌が触れて、息が混じって、思考が溶けていく。 Dの手が服の端にかかり、ためらいなく引き上げた。 肌に触れた瞬間、細い息が漏れる。「あ……」 恥ずかしさより、安心の方が勝っていた。(ああ……Dには、いつも甘く溶かされてしまう) Dの指は、ちゃんと私の反応を待つ。 早すぎない。 でも、逃がさない。「ね、朱音」 顎に指をかけられて、視線が合う。「これは、逃げ?」 私は迷わず首を振った。「違う。……私は、ここに来たかった」 Dはそれ以上、何も言わなかった。 ただ、ゆっくりと、深く、口づける。 触れ合うたびに、呼吸が乱れていく。 身体が熱を思い出して、考えることをやめていく。 Dの手が腰に落ちて、引き寄せられる。 密着した体温が、はっきりと「選んだ現実」を教えてくる。「声、我慢しなくていい」 低
「…………なん、ですって?」 いずみの声が一段落ちる。 店に出入りする人のざわめきよりも冷たい。 晴紀が淡々と続けた。「春の導線を動かしたのは、朱音の骨格だ。 鬼塚さんも認めていた」 いずみの視線が、ゆっくりと私に向く。 その目の奥で、何かが静かに裂ける音がした。「……許せないわ」 囁くような声なのに、背筋が凍るほど鋭い。「だって——」 いずみは一歩、私のほうへ踏み出した。 唇だけ笑って、目はまったく笑っていない。「清晴堂は私が救うのよ? あなたみたいな人に……横から奪われるなんて」 胸の奥がひゅっと縮む。 いずみは笑顔の皮だけを残して、感情を押し殺すように続けた。「なのに。 どうしてあなたなの? どうしてあなたの案なの?」 最後は、吐き出すように。「……許せない。許せるわけが、ないわ」 いずみの言葉が落ちた瞬間だった。 隣で、晴紀の表情がぐっと歪んだ。 怒りとも、悔しさともつかない、見たことのない陰の影。「いずみ、言い方が——」「事実を言っただけよ? ……ねぇ、朱音さん?」 あの焦げるような視線がこちらに向いた。 胸の奥で、何かがきしんだ。(……もう、ここにいてはいけない) その確信だけが、静かに落ちた。「ごめんなさい。 私は……これで」 晴紀が一歩、こちらに伸ばした。「朱音、待って——」 その声は、ほんの少しだけ掠れていた。 なのに、私の足は止まらなかった。 誰の視線も受け止められない。 誰のためにも、ここに立っていられない。 ガラス扉の外で、冷たい空気が肌を撫でた。 春の匂いは確かにそこにあるのに、 胸の奥はまだ、冬みたいに冷たかった。 そのまま私は、 出入りする人の流れに紛れるようにして、 背を向けた。(……来るべきじゃなかった。 私の居場所じゃないのに) そう思えば思うほど、 足取りは早く、乱れていく。(忘れた方がいい。 名前のないまま、そっと離れた方が) 自分に言い聞かせているだけだと、 どこかでわかっていた。 背中の遠くで、 晴紀が私の名を呼ぶ声が、確かに揺れた。 でも——振り返ったら崩れそうで。 私は、その声を振り切るように歩き続けた。*** 人の流れを抜けた途端、胸の奥がぐらりと揺れた。 気づけば、Dの名前を選んでいた。「……
【清晴堂、来客数回復の兆し 春の導線、職人映像がSNSで拡散中】 季節が、いつの間にか冬から春へ移っていた。 記事を閉じても、薄桜色の売り場写真が胸の奥にざわめきを残す。(……春、動き始めたんだ) 動画を開いた瞬間、心臓がかすかに跳ねた。 桜色の包み、並び順、光の当て方──(……これ、私が提案した「季節の骨格」がそのまま使われてる) けれど次の瞬間、指が止まる。(でも……あれ? ここは私の案と違う) 春菓子の背に、小さな余白の棚。 光の角度で桜影がふっと浮く。(こんなの……思いつかなかった)(……さすが、鬼塚さんだ) ページを閉じても、その棚だけが目に焼きついた。(……少しだけ。ほんの少しだけ、本物を見にいきたい) 本当に、ただそれだけのつもりだった。 でも、会社の出口を出たときには、 足が自然と清晴堂の方向へ向かっていた。(見つからないように。 ただ……企画の現場を見たいだけ)*** 翌朝。 春の空気はまだ冷たくて、 それが逆に胸を落ち着かせた。(……見に行くだけ。入らないから) 自分に言い訳しながら、 私は人の少ない開店すぐの時間に清晴堂へ向かった。 正面入口には近づかない。 観光客が流れ込む前に、建物脇へそっと回り込む。 ガラス越しに見える春の売り場。 桜色の包み、光の落ち方、職人の手元の動画モニター。(……映像で見るより、ずっと綺麗) 胸がひりつく。 自分の企画の骨格がそこにあるのに、 自分だけがこの場所の外側にいる。(……入れない。炎上したの、私なんだから) ガラスに手を触れるのも怖くて、 ただ少し離れた場所から見守るように立っていた。 そのとき──「……朱音?」 背後から、慎重に落とされた声。 振り返ると、 晴紀が買い出しの箱を抱えたまま、目を見開いていた。「なんで……外に?」「見に来ただけよ。外から……また炎上すると困るから」 そう言うと、晴紀の肩がかすかに沈んだ。「そうか」 しばらく黙っていた晴紀は、 ガラス越しの売り場を一緒に見るように立った。「朱音の企画……すごく良かったよ。新しいお客さんがたくさん来てくれてる」「……そう」「元は朱音の案だ。本当に、ありがとう」 その言葉が胸に刺さった。 そんなこと、言われたくなかったのに。 その瞬間─
玄関のドアが静かに閉まる。 外の冷たい空気が断たれ、部屋の温度が急に近くなる。 Dはコートを脱ぎながら、 部屋の中をひとつひとつ確かめるように見渡した。 そして、私の方へ向き直る。「朱音。ひとつだけ、確認したいことがあるの」 いつもの柔らかい声。 なのに、逃げ場がないくらい真っ直ぐだった。「あなたが——復讐をやめると決めたのなら」 そこで一歩近づく。 息が触れる距離。「……私と、一緒に生きてみない?」 告白より静かで、 求婚より甘くて、 選択より重い言葉だった。(……Dと、生きる?) 一瞬だけ、胸がふっと軽くなる。 気づきたくなかった感情が、静かに顔を出した。(でも——)(彼と一緒にいる私は……いつも心地いい)(もし、ずっと隣で過ごせるなら……) その想像が、 ひどく甘くて、 同時に、なぜか胸の奥を少し刺した。「復讐を手放すあなたの未来に、 私が必要だと思うの。 あなたの力になれるのは、きっと私よ」 そう言うDの目は 本気で、迷いがなくて、 私の人生そのものをまっすぐ掴みに来ていた。(……そんなの、反則でしょ) 胸が、ひどく熱くなる。 Dが一歩近づいた。 その瞬間、廊下の蛍光灯がわずかに揺れ、 白い光が彼の横顔のラインだけを切り取った。 頬の骨格の鋭さ、喉仏の影、長い睫毛の落とす影がゆっくりと揺れる。 ──美しいという言葉では足りなかった。「朱音。 ねぇ……こっちを見て?」 その声に、喉がひくりと鳴った。 殺気みたいに鋭いのに、 触れられたら壊される気がして—— でも、離れたら二度と戻れないような気もした。(だめ……今、これ以上近づいたら) ほんの一瞬、後ろへ体が引きかける。 でも、Dは追わない。 ただ待つ。 私のためらいごと受け止めるみたいに。「怖い?」 甘さと静けさが混じった声。 私は答えられなかった。 怖い—— でも、それ以上に惹かれてしまっている自分が、もっと怖かった。 Dの手がゆっくりと伸び、 けれど触れる直前でまた止まる。 その距離が、逆に私の胸を締めつけた。「……逃げたいなら、逃がしてあげるわよ」 優しい言葉なのに、 なぜか足が動かない。 呼吸すらできない。(……逃げたくない) 自分でも驚くほど静かに、 その想いだけが胸の奥に